共愛学園高等学校

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Food for Thought

「この欄に掲載されている文章は、中高宗教主任から、学園の教職員向けに書かれた文章です。」
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 1月の聖句
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 12月の聖句
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 11月の聖句
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1月の聖句

私はあなたたちを造った。 私が担い、背負い、救い出す。

イザヤ書 46:4


キリスト教的教育とは、教員である私たち全員が担う必要があると思います。そこには、「教育」に関して、「知識の伝達」「学力の向上」だけでは達成することのできない目標があるのではないでしょうか。
心に語りかけ、心の成長を助けるということは、単に私たちの持てるものを伝達したり、もしくは教練するということではなくて、一人一人の生徒が、どのような思い、どのような「物語」を担って生きているのかを、教師が全身全霊のエネルギーを傾けて聞き取って、初めて実現するのだと思います。
「わたしがあなたたちを造り、担い、背負い、救い出す」と神が言われるという預言書の言葉の背景には、国を滅ぼされ、希望を失い、目的を失ったバビロンの捕囚時代の人々に向けて、彼らの生きる状況を知り、彼らの絶望と嘆きのストーリーを知ったうえでの、「それでも神は見捨てない」という預言の言葉です。
学校の教育の中にあっては、それは聖書の記された知識であったり教訓として語られるのではなく、私たち教員が、生徒たちを決して見放さない、背負う、救うというメッセージとならなければならないと思います。生徒一人一人が抱えているストーリーに、私たちが注意深く聴くことによって成り立つのだと思います。それが共愛の教育の土台であり、本質であることを心より願っています。 (宗教主任)

12月の聖句

神は我々と共におられる。

マタイによる福音書 1:23


いよいよクリスマスの季節の到来です。降誕劇の中で、いいなづけのマリアが、自分にとって身に覚えがないのに身篭っていることを知ったヨセフが、マリアとの婚約を破棄しようかどうか迷っている時に、夢の中で天使が告げた言葉が今月の聖句です。
神様はいつも共におられる(インマヌエル)という聖句は、絶望、不安、悲しみの中にある人々へと向けられた言葉です。自信を失い、自分を支えていると思っていたものに失望する中で、それでも、神は共にあり、自分を支えているという思いが、聖書のこの言葉の背景です。
同じように、天使から妊娠していることを知らされたマリアは、そのことによって彼女に降りかかるであろう、人々の蔑み、怒り、憤りを予想しながらも、「Let it be. (Let your will be done to me.)」と返答したことが受胎告知の物語の中に伝えられています。マリアの天使への応答は、絶望や困難のさ中にあっても、神はどのような時でも自分を導き、共におられるという信頼の心に根ざした言葉であったわけです。
共愛学園での学びから、子どもたちがそのような思いを心の中に育ててくれることを願います。ますます混迷し、先行きの見えない社会の変化の中で、どんな時にも自分を支える存在への確信と、そして互いに生きる、平和を願う心を育んでいけることを、心より願います。 (宗教主任)

11月の聖句

主によって、喜び歌え。

詩編 33:1


祈りは聞かれないの?と生徒によく質問されます。キリスト教や宗教に触れて、彼らがよく疑問に思うことなのかもしれません。土曜日の「賛美と黙想」の礼拝では、自分自身を振り返り、様々なことに気づく時間を大切にしてきました。実はそれこそが祈りだと思うのです。自分の願い事を叶えてもらえるかどうか、自分の望むことが実現するかどうかが祈りの意味ではなく、自分が神様の望むように生きられているかどうかを振り返ることが「祈り」であるように感じます。
自分が中心にあるのではなく、神様が中心に置かれる時、私たちは他者のために祈ること、他者を思いやる心の大切さに気づかされるのではないでしょうか。他者の喜びを自分の喜びとして感じる心こそ、「愛する」ということの出発点であると思います。そしてその心を育てることが、キリスト教主義教育の基本であると感じます。
「主によって、喜び歌え。」と語る詩編の祈りの作者も、イスラエルの共同体が神によって集められ、支えられているという恵みを喜び感謝することから、このように言っているように感じます。 学校や友達、礼拝の時間が大好きな生徒たちが、共に集められていることを喜び、感謝することで、豊かな心を育んでいってくれることを願います。 (宗教主任)

10月の聖句

賜物を生かして、互いに使えなさい。

ペトロの手紙(一) 4:10


バザーがいよいよ目前に迫っています。各クラスや委員会、部活が総出で一つのものを作り上げるプロセスは、教育的に見ても非常に貴重な体験です。リーダーシップを発揮する生徒、裏方に徹する生徒、クラスのまとまりを乱す生徒、そしてそれを一生懸命に調整しようとする生徒。そんなちょっとしんどい歩みの中で、ひとりひとりが大きく成長していく姿を、先生方も楽しんだり、感動したりしていらっしゃると思います。
お互いの長所を見つけ合い、それらを協調させていくことは、聖書の価値観から言っても、まさにどんぴしゃりのプロセスなように感じます。
初期のキリスト教徒たちは、多文化社会の真っ只中に生きた人々です。文化、人種、言語も違えば、感性も違う人々が、教会に集まって、ちょうど高校生たちと同じように、様々なぶつかり合いを経験していました。ことは当時禁止されていた宗教を信仰しての共同体でしたから、時には命を張ってのぶつかり合いでした。そうした人々に一生懸命に語りかけているのが、今月の聖句などです。「賜物を生かして」(すべての人にギフトがあるという前提です)、そして、それが競い合うのではなく、協調して互に仕える関係を目指しなさい。それがキリストが私たちに教えた、大切な生き方なんですよ、と聖書が教えているのだと思います。 (宗教主任)

9月の聖句

愛によって歩みなさい。

エフェソの信徒への手紙 5:2


長い夏休みもあっという間に終わりました。先生方はお休みといっても、補習に部活にとお忙しかったことと思います。宗教部の活動は夏休みの前半に集中していましたので、後半は少し静かな毎日でした。
夏休みの最初は、何といっても修養会でした。同志社中学の桜井希(のぞみ)先生を迎えて、素晴らしい時間を過ごすことができました。今年の修養会は、生徒の参加も今までになく多く、中学生74名、高校生57名、教員32名の参加でした。  
   学校行事としての修養会を、毎年宗教部以外にも沢山の先生方が支えてくださって感謝です。お話しの時間も、その後のグループでの掘り下げの時間も、そして、楽しむ時には大いに楽しむという共愛の生徒たちの「のり」も、今までになく凄かったと思います。講師の桜井先生が最後に、「僕の学校でも、こんなに生徒たちが楽しめる修養会ができたらいいなあ。うらやましいなあ。」とつぶやいていたのが印象に残っています。
共愛の子どもたちが巣立っていって、一番心に強く残るのは、みんな一人一人が愛され、大切にされたという思いだと感じます。礼拝が好きな生徒、宗教行事が好きな生徒も沢山いますが、その土台は、一人一人が自分の居場所を与えられているということですし、それを作り出すのは、他でもなく、共愛の先生方一人一人であることは間違いありません。
今、学校の特色、「売り」について様々な試みがなされていますが、でも、言葉や数字で表現できない、この部分をしっかりとみんなで大切にしていく伝統を、教職員全員がしっかりと認識する必要があるのではないでしょうか。そのために、それぞれの立場から、協力してくださることを、心より願っています。 (宗教主任)

7月の聖句

私は良い羊飼いである。

ヨハネによる福音書 10:14


イエス・キリストのことを、聖書では「良い羊飼い」としてイメージしています。そこから教会の牧師も、「良い羊飼い」となることを志すものと理解されることが多くあります。ですから牧師のことを「牧者」と呼ぶこともありますし、英語ではpastorという言葉が使われます。
「良い羊飼い」とは決して、「正しい羊飼い」ではありません。(よく誤解されるのですが・・・)自分の価値基準(ものさし)を押し付けるのではなく、羊を導く者としての役割を担っていると考えられます。欧米では牧師の役割と資質をenablerであるべきだというふうに説明することがしばしばあります。
教師も同じように「羊飼い」としてenablerとしての自覚と資質を求められているのではないでしょうか。
先日礼拝で生徒たちに話しましたが、同志社中学、高校の斬新な試みにいろいろ考えさせられました。学校でチャイムがならないのです。始業時も、休み時間の終わりにも、一切チャイムが鳴りません。その代わり、普通の学校よりたくさん、廊下やホールに時計が設置されています。その日の予定、時間割変更、連絡などはすべて、いたるところに設置された連絡用スクリーンに表示されます。生徒たちは自分でそれらの連絡を確認し、自分で移動などにかかる時間を見計らいながら、1日のスケジュールをこなしていました。このシステムによって、生徒たちの自主性と責任感は大きく育てられたと、先生たちだけでなく、生徒たちからの評価でした。
もちろん、システムも、物理的構造もちがう学校で、それをそのまま真似することはできませんが、生徒たちが自らを律し、自ら判断する力を養うことが、教育の本質、そして「良い羊飼い」として志すべきことだと考えさせられ、気づかされた良い機会でした。  (宗教主任)

6月の聖句

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を、確認することです。

ヘブライ人への手紙 11:1


以前、同じキリスト教主義の学校である、新潟県の敬和学園高校で、聖書科教師の研修会が開かれて参加したことがあります。この学校では、毎朝礼拝堂に全校生徒が集まり、そこで出席をとって一日が始まります。新潟市の郊外に位置するため、市内や近郊の町々から、大半の生徒たちは学園のバスで通学してきます。交通事情によってバスが遅れる時には、全校の生徒は礼拝堂に座り、そのバスが到着するのを待ってから礼拝が始められます。(もちろん送れる度合いにもよるでしょうが)。
礼拝の司会は全生徒が順番に担当するようです。全校の生徒の前に立つなんてとんでもないと思う性格の生徒たちにも、かならず順番が回ってくるのだそうです。場面寡黙ぎみの生徒が司会に当たった礼拝で、なかなか声の出ない生徒が、たどたどしく司会をしたことがあるそうです。そんな時、生徒も先生も心の中で「がんばれ!」という気持ちで、ずっとその生徒がつっかえつっかえ聖書を読んだり、礼拝進行の係りを務めるのと見守ったのだと、小西校長が話してくださいました。
生徒たちが様々なハードルを乗り越えて成長していく様子を、全校が見守り励ます、そのような機会としても礼拝が大切にされている様子でした。
共愛学園の礼拝も、そんな気持ちの通い合う時間となっていくことを、皆さんで目指していければと願っています。  (宗教主任)

5月の聖句

わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。

ヨハネによる福音書 11:25


学園に入学して、生徒たちは初めて聖書や礼拝の体験に触れます。聖書の時間に、入学して間もない時期に感想を書いてもらうと、ほとんど全員の生徒たちが、最初は礼拝があると聞いて、どのようなことをするのか、どのように受け止めたらよいのかと戸惑ったこと、いざ、礼拝に参加してみて、「一日の始まりがとても心和やかに始めることができる。」「讃美歌やオルガンの音色がとても好き」「いろんな先生のお話しや、聖書に書かれてある言葉に心打たれた・・・」「礼拝の時間が好きだ」などと非常にポジティブな感想を持つようです。
数年前の外部評価の結果にも現れていましたが、共愛生や保護者の宗教教育に対する評価は、他のキリスト教主義学校に比べて、際立って肯定的なようです。卒業生たちが沢山朝の礼拝にやってくるのも、そうした理由によると思います。
今、私学の生き残り、特色の差別化の必要性が言われますが、この礼拝や他の宗教教育に対する生徒たちのポジティブな評価は、絶対に一日やそこらで作り出すことのできない、共愛学園の財産、強みであると思います。 そして、生徒たちのこのようなポジティブな受け止め方は、普段の礼拝のあり方に決定的に依存していると思います。毎朝行うということもですが、何にもまして、先生方も礼拝を大切に思っていてくださること、先生方も、生徒たちと一緒に礼拝に参加していることだと思います。
そこで一人一人が感じる、自分の居場所、自分が受け入れられているという思いは、まさに、人を生かし、成長させる力の源なのではないでしょうか。これからも、その財産を決して軽んじることなく大切に守っていけることを、心より願っています。  (宗教主任)

3月の聖句

あなたがたは地の塩である。

マタイによる福音書 5:13


様々なキリスト教主義学校には建学の精神といわれるものが掲げられていることが多いようです。「神を仰ぎ、人に仕う」、「愛神、愛人」、「Do For Others」など、様々なモットー、建学の精神を掲げています。聖書の言葉そのままであったり、その意味を表現したものであったりします。青山学院は、今月の聖句の箇所から、「地の塩、世の光」を掲げています。
様々なものがあるのですが、それは表現や強調点こそ違え、聖書に伝えられたキリストの精神を反映しています。共愛はご存知の通り、その始まりははっきりとしていないのですが、「共に愛する」ということを学園の名として、それがヨハネによる福音書に由来するとしています。
これらの建学の精神は、しかしながら、単に歴史を思わせるためにあるのではなく、それぞれの学校で、繰り返し繰り返し、今における自らの教育のあり方を振り返るために反芻されています。生徒たちにはもちろんですが、その学校の教育に携わる教職員にとっても、自らの教育の根ざすところを確認させられるものでなくてはなりません。愛する人となりなさいという共愛学園の精神は、私たち教職員が、生徒一人一人を愛することによってのみ伝えられていくのだと思います。そして、日常の仕事の中で、常にこの精神が顧みられ、生徒たちとの関わり一つ一つの中に、そのことが実践されているかどうかが問われています。
新年度を控えて、もう一度、先生方と一緒に、この学園の存在する目的を再確認できたらと思います。 (宗教主任)

12月の聖句

初めに言があった。言は神と共にあった。

ヨハネによる福音書 1:1


新約聖書にイエス・キリストの生涯を伝える書物が4つあります。福音(良い知らせ)を伝えるこれらの4つの書物のうち、イエス・キリストの誕生の物語を伝えているのは、マタイとルカ福音書だけです。一番古いとされているマルコによる福音書には、イエスの出生についての記述はありません。そして、他の3つと大変異なるスタイルのヨハネによる福音書にも、イエスがどこで生まれたのかはいっさい書かれていません。
イエスの出生が重要なのではなく、イエスがどのような存在であり、何を私たちに知らせたのかが福音書の中心的な関心事ですので、マルコとヨハネにとっては、誕生の物語は必要なかったのであろうと考えられています。
そんなヨハネは、イエスが十字架にかけられる前の晩のあの有名な「最後の晩餐」の記述も伝えていません。パンと葡萄酒を祝福し、弟子たちと分かち合った食事のことを伝える代わりに、イエスが弟子一人一人の足を膝まづいて洗った出来事が伝えられています。そして、これからは互いに仕え合う者となりなさいと教えるのです。ですから、他の福音書が誕生の物語を伝える箇所で、ヨハネが他の表現を用いて、イエス・キリストの意味を語っているとも言えます。福音書の一番最初で、イエスが神の本質をもった存在(言=ロゴス)であること。そしてその本質が私たちの生活の中で具体的な形(肉)となったと語る時、私たちが共に生きる人々との出会いの中で、神の本質を知らされ、そこに生きることへ招かれているのだと言えます。「互いに愛し合いなさい」という共愛学園の大切にする聖句と、直接関係しているのだと思います。クリスマスを、2000年前の出来事を祝うだけでなく、今、共に生きる人と人との関わりの重要さを伝える物語として祝えることを願っています。(宗教主任)

10月の聖句

愛は決して滅びない。

コリントの信徒への手紙(1) 12:8


キリスト教教育の土台とはいったい何でしょうか。共愛に努める先生方と、この教育を共に担い、支えるということの意味を、様々な教育の現場で、一人一人が考え続ける必要があると思います。
聖書の価値観から言うと、愛は決して滅びないということは、愛はすべてに優先するということだと思います。私たちは教育の現場にいますから、生徒の成長を願う中で、私たちが生きる社会で生徒たちが生きていけるように願い、教育、指導に携わります。時には一般社会で優先されることを、教育の指針としてしまいがちです。
しかしながら、聖書に根差す教育を目指すとは、必ずしも、一般社会の常識や価値観を養うこととは違うのかもしれません。愛がすべてに優先するということを、信頼をもって受け止めようとする時には、時には、世間の常識や有り様に対立することもあるだろうと思います。
そこで一番私たちが受ける大きなチャレンジは、私たちは「愛するということ」が何ものにも勝る力であることを信頼できているかどうかだと思います。愛されることによって、人は成長するということを、私たちがどれほど心の奥底で信頼しきることができるかどうかだと思うのです。
そんな聖書の言葉に聴きながら、共愛の教育を一緒に担っていってくださることをお祈りしています。(宗教主任)

9月の聖句

赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。

ルカによる福音書 6:37


「ゆるす」という思想は、聖書にあっては非常に重要かつ、独特な思想です。通常の社会では、何か過ちを犯した場合、それ相応の償いをして初めて、「許される」わけですし、誰かから「許されて」特定の行動や活動がなされるというふうに使われます。 
聖書の語る「ゆるし」は、神のゆるしについてです。償い、代償が前提とはなっていません。「ゆるす」とは「解き放つ」「解放する」という意味の言葉が使われています。
もし、私たちが人間の持つ不完全さを神様に対して償ったり、完全になることでしか赦されないのであれば、人間は誰も神様の前に正しくなることはできません。それが聖書の人間理解です。だとすれば、私たちがどれだけ懺悔したか、どれだけ償ったかにかかわらず、神様から一方的に赦され、解放され、認められているのが、私たちの現実であることに気づかされます。
「赦しなさい」という教えは、その意味で、他者をありのままに受け入れ、裁くことなく、認める関わりを作りだしなさいということだと思います。そうした時に、私たち自身も解放されるわけです。
生徒一人一人との関わりの中で、一つ一つの個性大切にし、一人一人の思いを尊重していく教育の中で、私たち教師もさらに豊かな人間性を与えられていくことではないでしょうか。(宗教主任)

7月の聖句

ひとりよりもふたりが良い。
共に労苦すれば、その報いは良い。

コヘレトの言葉 4:9


共に愛するという私たちの学園の名前が、礼拝や聖書の時間に何度となく語られます。生徒たちは、初めて学園の門をくぐってから、この言葉、学園の名に様々な思いをいだきながら生活していることと思います。
愛するということに強調点がおかれがちですが、実は「共に」という言葉も、学園の教育の土台として、非常に重要な意味を持っているように感じます。
世界が分断され、人と人とが分断され続ける現代の社会において、人と人とは「共に生きる」存在であるということを、心の奥底に刻み込んで成長していくことは、これまで以上に大切なことなのではないでしょうか。日本的な感覚の中では、人はつながりの中にあって生きるということは、自明のこととして考えられがちです。私たちの教育もそうした価値観に立つことが多いと言えます。
しかし、個と個はそれぞれユニークなギフトを創造主から与えられているということ、「みんなちがって、みんないい」ということが、うっかりすると、全体の和という発想の中にかき消されがちなことも事実です。
礼拝や、生徒指導を行う中で、共愛学園にあっては、共にある一人一人の個性が尊重され、大切に見守られる中で、同時に、互いの存在がそれぞれのかかわりと成長とに、欠かすことのできないかけがえのないものであることを、教員、生徒が共に学んでいく作業であることを願っています。(宗教主任)

5月の聖句

恐れることはない。私はあなたと共にいる。

イザヤ書 41:10


「私はあなたと共にいる」という預言者の言葉は、国を失い、神殿を失って外国の地に捕らわれの身分となったイスラエルの人々に、人生のどのような困難の中にあっても、神は共にいて支えてくださること、希望を失ってはいけないことを教え続けました。聖書のメッセージの基本は、「神は共におられ、そして愛し、救い出される」という旧約の救済史観を土台にしています。
先日、中高の卒業生が、前橋国際大学のチャペルでお話しされると聞き、何人かの先生方と礼拝に参加してきました。中学に入学した時点で、高校への進学も危ぶまれるほどに学力面でも、社会性においても出遅れてしまっていた彼女が、大学の1年生のほぼ全員を前にして、しっかりと、そして凛とした口調で、自らの信仰について語っているのを聞きながら、深い感動を覚えると同時に、6年間、彼女を見守り育ててくださった先生方に心からのエールを送る気持ちにさせられました。
キリスト教教育は、聖書の知識や考え方を生徒たちに伝達することだけではなく、生徒の成長の中に、共におられ支えられる神の確かな導きを共に発見し、具現化する作業でもあると思います。それは、教職員全員が力を合わせて成しえることですし、その喜びと称賛は全員の先生方に向けられるものだと思います。今、共愛に集う生徒一人一人をも、同じように神様からの預かりものとして大事に育てていくことを、ご一緒に目指していけることをお祈りしています。(宗教主任)

4月の聖句

互いに愛し合いなさい。

ヨハネ 15:17


今月の聖句、新年度の1週間で、生徒も教職員も何度となく触れる聖書の言葉です。年度の始まりだけではなく、共愛学園に携わる者みな、年間を通して触れ、そしてそれぞれで、その聖書の言葉を振り返る機会は多いだろうと思います。
この「互いに愛する」という聖句は、いわば私たちの学園のアイデンティティを規定する言葉であろうと思います。単なる校名の由来ではなく、教育活動の全域にわたって、この言葉の精神が実践されているかどうかが、常に問われると思うからです。
少子化の流れの中で、進学実績は学校が地域社会の中で、認知されていくために、無視することのできない、大きな要素であることは間違いありません。でも、共愛の教育の目指すところは、そうして勝ち取った進路実績の後に、卒業していく生徒一人一人がどのような生き方を選び取っていくのか、その選択の中に、学園の礎ともいえる、他者のために生きる、互いのために生きるという価値観が何等かの要因となっているのかどうかだと感じます。
勉強だけでなく、学園生活のすべての営みの中で、互いを尊重し、認め、受け入れるという価値観が、いつも意識され、そのことによって、一人一人が自らの存在を喜び、そして希望と喜びと共に成長していってくれることを、教職員全員で目指す1年となることをお祈りしています。(宗教主任)

3月の聖句

あなたたちは真理を知り、
真理はあなたたちを自由にする。

ヨハネによる福音書 8:32


今年度も終わりが近づいています。今年も共愛の歩みが先生方お一人お一人によって支えられたことを心より感謝しています。卒業していく生徒たちを見送りながら、3年間、6年間という時間の中で、共愛学園が生徒たちに伝えたいこと、それをどう教員の間で共有することができるのかということについて振り返る時間を持ちました。
キリスト教教育の実績というものは、なかなか言葉にすることは難しいですし、ましてや目に見える形で示すことはできません。でも、生徒たちの言葉の中にも、そして先生方の思いの中にも、確かに存在する力であることも事実だと思います。
送別礼拝で、生徒たちに向かって「弱い時にこそ強い」「神様はいつもあなたがたと共におられる」というメッセージを贈りました。それが私たちが生徒たちに伝えたいことを良く言い表していると感じたからです。
このメッセージをどのように生徒たちの心の中に伝えるかが私たちの一番の課題なのではないでしょうか。もちろん様々な宗教行事や礼拝、聖書の時間がありますが、このメッセージは、決して言葉では伝わらないものなのだと思います。私たち教員がそろって、一人一人の存在を大切なものとして愛し、喜ぶこと、一人一人の様々な個性の中にある可能性を最後まで信じていくことに尽きるのだと感じます。
そんな歩みを支え続けてくださる先生方に感謝と敬意を表すと共に、これからも、その土台を決して崩すことなく、力を合わせていけることをお祈りしています。(宗教主任)

2月の聖句

初めに、神は天地を創造された。

創世記 1:1


聖書の最初に書かれている物語は、この世界の始まりについて語る天地創造の物語です。生徒たちは共愛に入学して、この物語をどう理解したらよいのか戸惑うことが多いようです。
科学的な意味でのこの世界の成り立ちを聖書が語っているのだとしたら、到底受け入れられるものではないと感じるからでしょう。
創造物語の意味するところは、人間の本質をどのようにとらえているかということにかかわっていると言えます。科学的にこの世界の構造や成り立ちを解き明かしているのではなく、私たちと世界の存在の理由、意味について語っていると思うのです。
そこから考えると、天地創造の物語は、様々な価値観、人間の創り出した不自然(格差であったり、偏見であったり、疎外された人々の存在であったり)が溢れかえるこの世界を見渡して、本来あるべき世界の姿について語っているのだと思います。
多感な思春期の子どもたちが、まさに混沌とした様々な力に押し流されそうになり、自らの姿を否定的に捉えたり、後ろ向きに感じたりしてしまう時に、本来ある彼らの命の美しさ、可能性をいつも信頼して、それを示し続けるのが、聖書の価値観に根差した教育の本来のあり方なのではないでしょうか。  (宗教主任)

1月の聖句

わたしの恵みは、あなたに十分である。

コリントの信徒への手紙(二) 12:9


今月の聖句、「わたしの恵みはあなたに十分である」という箇所は、後半の「力は弱さの中でこそ発揮されるのだ」という言葉に続いている箇所です。弱い時にこそ、自分を支えるものの存在や、意義について気づかされるのが、私たち一人ひとりであると思います。生徒たちが、学園生活の中で、様々なことに躓いたり、立ち止まったりしている時に、そこに共に寄り添うことで、彼らが自分を支えるものの大切さに気づいていけるように導いたり、また一緒にそのことを体験することが、教育の出発点であろうと思います。
うまくいかないことだらけの人生に向き合う生徒たち、また私たち一人ひとりですが、聖書の言葉が、そうした一つ一つの弱さを思い知らされる体験の中で、いつも私たちを支えてくれることを感謝しつつ、今年の1年も過ごせることを願っています。
弱さを体験する状況が、生徒にとっても、そして私たちにとっても、大きな教育的な機会であることを心に留めながら、日々、生徒に向き合っていくことができますようにお祈りしています。(宗教主任)

12月の聖句

主に望みをおく人は新たな力を得、

鷲のように翼を張ってのぼる。

イザヤ書 40:31


アドヴェントを迎え、今年も学校全体がクリスマスに向けて、様々な準備を進めています。先生方のご協力によって、生徒たちが学園で過ごす3年間、6年間に心に刻み込む様々な思いを非常に大切なものと感じ、それを一緒に創り出すために思いを一つにしてくださること、心より感謝です。
先日、教会の日曜日の礼拝のメッセージを依頼されて、そこで共愛の働きについて語るうちに気づかされたことがあります。3年間を過ごす生徒たちは、約500回以上は、礼拝を体験します。聖書の時間も90時間を超えることになります。500回も聖書に関してのメッセージを聞き、それぞれが自分のことと関連して、何かを感じ、何かを考える時間をもっているわけです。聖書の授業の中でも、同じことをさらに濃い密度で体験します。今更ながらに、その時間の貴重なこと、共愛教育にとっての重要な部分であることを思わされました。毎日の積み重ね・・・・と言いますが、礼拝の時間を生徒たちの心に響く時間にしていくことの大切さを、私たちも普段からきちんと認識しなければならないと感じました。
クリスマスに向けて、今年も、生徒たちが大切な何かを感じる体験をもつことができるよう、先生方、是非よろしくお願いいたします。 (宗教主任)