共愛学園高等学校

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Food for Thought

「この欄に掲載されている文章は、中高宗教主任から、学園の教職員向けに書かれた文章です。」
2015/03
 3月の聖句
2014/12
 12月の聖句
2014/11
 11月の聖句
2014/10
 10月の聖句
2014/09
 9月の聖句
2014/06
 6月の聖句
2014/04
 4月の聖句
 2013年以前のコラムはこちら

3月の聖句

自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。

レビ記 19:18


旧約聖書のレビ記とは、トーラーと呼ばれるモーセの5つの律法の一つで、伝統的には、モーセによって与えられた、神からの律法を記した書と理解されてきました。ですから、ユダヤ教においてはもちろん、キリスト教においても非常に重要な意味をもった律法についての解説が主要な内容となります。
その律法ですが、日本に住む私たちにはあまりなじみのないものなのかもしれません。戒律と理解すると、何か自分の生き方を縛り付ける、不自由さを感じてしまうだろうと思います。
ですが、様々な民族に翻弄され続けて生きた一つの民族が、歴史の中で、自らのアイデンティティを失うことなく生き残っていった大きな根拠であり、歴史の中で紡がれてきた民族の知恵として読むと、多くのことに学ばされます。
争い、絶望、裏切り、悲しみが溢れかえったいつ終わるとも知れない苦難の歴史の中で、人々は仲間であるために、共に生きるために、自らの歴史と現実から学びつつ、律法を見つけ出し、それを神様からの贈り物として理解してきました。
それは、個性や思想、人種、文化を超えて私たちがいかに共存することができるのかという現代社会が抱える大きな課題にも、普遍的な光を投げかける知恵であると思います。
自らの痛み、悲しみを知るが故に、他者の痛みに寄り添う心を忘れてはならないという思想が、常に旧約の思想の背景に流れています。そうした意味で、共愛に学ぶ生徒一人一人の心の基に、他者を思う心が育つことを願っています。国際理解の重要性が叫ばれる昨今ですが、そのすべての礎として、この思想は非常に重要だと感じます。 (宗教主任)

12月の聖句

平和を実現する人々は幸いである。

マタイによる福音書 5:9


先日、全国のカトリックとプロテスタントのキリスト教学校に関わる教職員懇談会が青山学院高校を会場に開かれ200人以上の管理職、宗教教育に関わる教員が集まりました。国際キリスト教大学で教鞭をとられる大川洋先生の「キリスト教学校がめざすもの -キリスト教教育は道徳教育とどこが違うのか-」という講演を聞き、大変大きな刺激をうけました。道徳心は、決して人から指図されて身につくものではありません。それが上からの押し付けならば、上のご機嫌を伺う表面的な行動や言動にしかなりません。人を愛し、人に仕える心は、人を生かす絶対的な存在との実存的な出会いなしに、決してその人の生き方の根幹にはならないのだと思います。
そういう意味で、キリスト教主義教育は、生徒一人一人の命の根源である創造主との出会いが決定的に重要な点です。そして、それは、やはり押し付けの聖書理解や、キリスト教の価値観では決して実現いたしません。
いろんなことに悩み、立ち止まり、時には後ろ向きになってしまう思春期の子どもたちが、自分自身を見つめたり、自分の存在に様々な問いを発する時、心の一番奥底で、自己を肯定する思いに気付くのは、知恵や知識ではなく、理屈を超えて自分を支える存在への気付きだと思います。そして、それは授業を越えて、毎日の先生や友達との関わり、学校の生活の中で感じ取っていくものなのだと思います。そういう意味で、それは聖書科や一部の教員によってではなく、学校全体の先生方の日々の関わりの中で、初めて実現するのだと思います。そんな学園の教育の根幹を、みんなで考え続けていけることを願っています。(宗教主任)

11月の聖句

涙と共に種を蒔く人は、 喜びの歌と共に刈り入れる。

詩編 126:5


「国を愛する心を育てる教育」が重要であるという思想から、「特別の教科 道徳」が教科化されることが、ほぼ現実的になってきました。全国の私学でもこうした動きにどのように対応していかなければならないのかを、様々なアンケート調査などを始めることで検討しだしているようです。宗教教育を、この「特別な教科」に置き換えて実施できるのかどうかが、今後の大きなポイントになるだろうと考えられます。
キリスト教学校同盟(キ同盟)という繋がりの中に私たちの共愛学園も存在していますが、長い年月の中で、その存在意義があまり理解されなくなってしまっていると感じます。明治から昭和にかけて、教育が国民の思想を「愛国」の方向へと教化することの重要な鍵として意義付けられていく時代の流れの中で、キ同盟は仏教やその他の宗教学校との協力の中で、信教の自由、思想の自由を守る戦いを続けてきました。時には、学校の存亡をかけて、宗教的価値観に根ざした教育の重要性を訴え、そしてその立場を勝ち取ってきました。現在の私たちの教育は、そうした先達の体を張った主張、運動によって存続してきたのだといえます。
今、そうした「自由」が脅かされる時代に私たちが知らず知らずに入り込んでいる気配に、大きな危機感を感じます。私たち自身が、声を上げなければならない時が、すぐそこまで迫っていることを、是非、先生方と一緒に真剣に考えていくことをできるよう願っています。(宗教主任)

10月の聖句

この最も小さい一人にしたのは、 私にしてくれたことなのである。

マタイによる福音書 25:40


先日の沖縄からの青年知念優幸さんの言葉が、大変印象的でした。沖縄からのメッセージは、平和の問題、沖縄の痛みを他人事として聞かないでほしいということだったと感じました。自分の身に何か起こってから理解するのではなく、この世界に暮す多くの人々の痛みを、共感することのできる心を持ってほしいということだと思います。
キリスト教主義教育と同時に、私たちの学園では国際理解教育ということに力を入れています。グローバル化するこの社会で、本当に必要なのは、自らのアジェンダを自己主張する言葉の能力のことではなく、国境や文化、宗教を越えて、私たちが出会う人々の生きる様々な課題を、共感をもって理解し、そうした人々と共に生きることのできる感性のことだろうと思います。
そして、それはまさに聖書の価値観であると思います。最も小さくされた人々に寄り添うことのできる心を育てること、人々の痛みを他人事としてではなく、自らの痛みとして感じることのできる感受性を、教育の目的の一番大切なものとして見据えた教育が、キリスト教教育の土台だと感じます。そうした意味でのキリスト教主義教育を、先生方一人一人が共通の意識をもって実現していってくださることを、心より願っています。(宗教主任)

9月の聖句

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。

ローマの信徒への手紙 12:15


この箇所が好きな生徒はたくさんいると思います。共愛での時間を通して、わたしたちはキリスト教的な考え方、人間観、そして人と人とが共に生きることの大切さを伝えようとしているわけですが、それは、人の痛みを知り、それを共感できる心を育てることに他なりません。いじめも、そして平和の問題も、わたしたち人間が、自分以外の弱い立場にある人々の命の重みや、痛みを、自らのことと同じように愛おしいものとして共感する想像力を持つことができるかどうかだと思います。
教師として自戒しなければならないことは、わたしたちが子どもたちより経験も、知識も上に立っているという思い込みではないでしょうか。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことのできる心を、子どもたちは、大人であるわたしたちよりもずっと豊かに持っています。共愛教育のスタンスは、教師であるわたしたちは常に、それに学び、そして子どもたちがそうした心を失うことなく、大人になっていけることを支援することであると感じています。
2学期も、様々な関わりの中で、それを大切に心に留めて過ごせるようお祈りしています。 (宗教主任)

6月の聖句

私はあなたを選び、決して見捨てない。

イザヤ書 41:9


私たちの子どもの時もそうでしたが、現在の子どもたちはなおさら、いつも変わりゆく世の中に翻弄されながら生きているのかもしれません。情報の洪水の中で、いったい自分をささえる確かなものがどこにあるのか、見極めづらい世界に暮らしています。
友達関係も、親子関係も、まるでガラス細工のように繊細で、いつ壊れてしまうのかまったく予想がつきません。それが崩壊することの恐れを、潜在意識の中に深い深い不安と恐れとして抱きながら暮らしているのが、私たちが日々接している子どもたちであるような気がします。
良いにつけ、悪いにつけ、大人の時代には、絶対的なものが生活の中にひしめいていました。親の権威、教員の権威、社会生活上の規律などです。
壊れてしまいそうなものは、決して私たちの人生の決断に絶対の力を発揮しません。自分の存在が確固たるものによって支えられているという信頼なしに、人は大人として成長することも困難になるのかもしれません。
聖書が、「私は決してあなたを見捨てない・」と語るとき、それが生徒たち一人一人にとっての心の礎となってくれることを願います。信仰にいたらなくても、自分の存在を徹底的に肯定して止まないものの存在が、生徒たち一人一人の成長を支えるものとなってくれることを願っています。 (宗教主任)

4月の聖句

私があなたがたを愛したように、 互いに愛し合いなさい。

ヨハネによる福音書15:12


いよいよ新しい年度となります。毎年のことですが、初めて共愛の門をくぐり、入学式や毎朝の礼拝にどきどきしながら日々を過ごす新入生たちの気持ちが、毎年毎年の出来事であるにもかかわらず、新鮮な思いを与えられます。
「私があなたがたを愛したように・・・・・」という聖書の言葉は、生徒たち一人一人が「愛されている、大切にされている・・・」という思いをもって初めて、他者を思いやる心へと導かれるのだということを感じます。
生徒を大切にするという学園の思いは、先生方一人一人の様々なスタイル、方法で伝えられるのだと思いますが、それが何であれ、一番の土台として、生徒一人一人の人格を尊重することにあると思います。それは、上から教えや訓練を与えるのではなく、人と人、人格と人格の出会いと関わりの中でのみ実現されるのだと思います。
愛するという言葉は、「大切にする」「受け入れる」「認める」という言葉で言い換えることができるのかもしれません。共愛学園の教師として、その目的を共に担うという思いを共有する私たちが、共に助け合い、協力しあって、新しく入学してくる生徒一人一人を見守っていけることを、心より願っています。 (宗教主任)